桜井真樹子の
公演紹介
performance
水猿曲(みずのえんきょく)

「日本音楽・歌謡資料集<楽譜総集篇>平野健次 福島和夫 
編集並びに解説、上野学園日本資料室 協力、勉誠社 発行、昭和52年

【作品について】
この曲は、新嘗祭および大嘗祭に行われた五節舞(ごせちのまい)を中心とする宮廷行事の催し物の内容を書き留めた「五節間郢曲事(ごせちのかんえいきょくのこと)」に、歌詞が残されているものです。

 新嘗祭および大嘗祭は、旧暦十一月の丑・寅・辰の日に行われます。
 水猿曲は、第二日目、寅の日の「殿上淵酔(でんじょうのえんずい)」で行われたと記されています。「淵酔」とは、宮中の清涼殿(せいりょうでん)で殿上人(宮廷に入ることを許された者)を召し、今様、朗詠を歌い、歌舞を楽しむことです。さらに「准后御休廬 推参事(じゅんこうおんやすみところ すいさんのこと)」とも記されています。この「盧」という字からおそらく准后(太皇太后、皇太后、皇后の三皇に準じた処遇を与えられた者)が茶室のようなところで、お休みになられているときに、茶室から池に浮かべられた船に乗る推参者(すいさんもの)が演奏したのでしょう。清涼殿を離れた「盧」であるがゆえに、推参者が、殿上人でなくても、准后は、その歌舞を見ることができたのかもしれません。

 五節間郢曲事の中の「水猿曲」の題名の下には「或号水白拍子(あるいはみずのしらびょうしとごうす)」と書かれています。これは、この「水猿曲(水の宴曲)」を歌うのを得意とした白拍子、彼女自身のことを人々は「水の白拍子」と呼んだ、ゆえにこの曲を「水の白拍子」という曲名でも人々に知られていたということかもしれません。「梁塵秘抄の巻十四」には、仁安元年(1166年)、六条天皇の即位の時、今様の会(会講式)も「半ば絶え(終わり)」、「人もいなくなったころ、乱舞をして『水の白拍子』は、歌い帰った」とあります。

 歌の内容は、水の優れたところを、インド、西天竺から、中国の昆明池、そして厳陵瀬、さらに東に向かって日本の山田、そして三島を上げてゆきます。富士山の雪が、春になって溶け出して、三島の入江に流れてゆきます。春の最初の雪解け水を「若水」と言い、それを、立春に天皇に奉りました。若水は、邪気を払い、人を若返らせると言われています。
 「義経記巻第六」では、京都にいた静は、九十九人の白拍子が、神泉苑で雨乞いのために歌い舞っても、雨が降らなかったのに、百人目の白拍子として、「しんむじょうの曲」を歌い舞うと、たちまち大雨をもたらしたと言われています。
 「西天竺の白露池、しむしょうこゆに澄み渡る」という歌詞の「しむしょう」ということばが、「しんむじょう」と人に聴こえたのかもしれせん。静もこの「水猿曲」を歌ったのかもしれません。

 「五節間郢曲事」の水猿曲の譜はかなり正確に残されており、復曲可能です。おそらく、綾小路俊量を始めとする郢曲家が、この美しい歌を自分たちも歌ってみたい、という思いから、その歌を正確に留めようとしたのでしょう。芝祐靖(1935〜 龍笛、雅楽演奏家)は、上賀茂神社の三手文庫(みてぶんこ)に、これも正確に残されている譜から、復曲演奏をしたのが、始まりで、それに桜井真樹子が舞の振りをつけました。
【歌詞】
水のすぐれておぼゆるは
西天竺の白鷺池 しむしょう許由にすみわたる
昆明池の水の色 行末久しくすむとかや
賢人の釣を垂れしは 厳陵瀬の河のみず
月影ながらもるなるは 山田の筧の水とかや
葦の下葉を綴るは みしま入江の氷みず
春立つ空の若水は 汲むとも汲むとも 尽きもせじ尽きもせじ
【意味】
優れている水として忘れられないものを揚げていくと、まずは、西の彼方からは天竺(いんど)の白鷺池(はくろち)
 これは、清らかに静かにたたずんでいる。
 昆明池の水の色はいつまでも永遠に澄むという。
 賢人(厳光という人)の釣りの糸を垂れているのは厳陵瀬(げんりょうらい)でそこの河の水も優れている。
 月影で洩れて見えているのは、山田の筧(かけい)であるとか。  葦の下葉を閉ざしているのは、三島入江(摂津の国の歌枕)の氷水のせいだ。
 それが、春になると、その空の下の若水は、汲んでも汲んでも、尽きることがないのだよ